茂木もぎ善作ぜんさく

酒田市(飽海郡本楯村大字豊原(現在は酒田市本楯地区))出身で、山形県人として初めてオリンピック(1920年アントワープ大会/マラソン競技)に出場された郷土の英雄です。

アントワープ五輪に出場時の茂木善作氏
マラソン競技に出場し、20位(記録2:51:09)と
健闘した。(大正9年)
第1回箱根駅伝 東京高等師範のアンカーとして11分52秒の大差を大逆転し、さらに25秒の差をつけて、見事な逆転優勝を飾った茂木善作氏 (大正9年)

経歴

明治26年(1893年)12月10日 飽海郡本楯村大字豊原に農家の三男として生まれる。
大正2年(1913年) 山形県師範学校(現・山形大学教育文化学部)を卒業、蕨岡尋常高等小学校(現在の遊佐町立蕨岡小学校)に教師として赴任する。
大正7年(1918年) 東京高等師範学校(現在の筑波大学)に入学。金栗四三氏と出会い、金栗の門下生として長距離走者として頭角を現す。
大正9年(1920年)2月 金栗四三氏が「世界に通用するランナーを育てるため」という一念のもとに開かれた第1回箱根駅伝(東京高師、早稲田、慶応、明治の計4校が出場)に東京高等師範学校のアンカーとして出場。茂木善作氏は二位でたすきを引き継ぐと、トップの明治との11分52秒の大差を大逆転し、さらに25秒の差をつけて、見事な逆転優勝を飾る。
大正9年(1920年)8月 ベルギーでアントワープ五輪が開催され、マラソン競技(48人参加)に、金栗氏や、三浦弥平氏(早稲田大)、八島健三氏(明治大)の各選手と共に出場。金栗氏が16位、茂木氏が20位(記録2:51:09)、八島氏が21位、三浦氏が24位となった(棄権13人)。日本としては2回目のオリンピックへの参加となる。
大正10年(1921年)5月 上海での第5回極東選手権競技大会のマラソン競技に参加し2位となり、銀メダルを獲得し、学生生活の有終の美を飾った。東京高師卒業後は旧制水戸高の助教授、満州の旅順工科大助教授、吉林師道大教授を経て昭和18年(1943年)、承徳師道学校長に就任。
昭和21年(1946年) 満州から帰国し、日本体育協会(現・日本スポーツ協会)役員や山形県縦断駅伝競走初代審判長を務めるなど、山形県のスポーツ振興に寄与した。
昭和25年(1950年) 脳梗塞で倒れ、その後は病床生活を送る。
昭和49年(1974年) 81歳で亡くなる。

茂木氏は、長距離選手育成へ願いを込め、酒田市に寄付金を寄贈されている。

酒田市ではこれに基づき昭和42年(1967年)、茂木氏の功績を顕彰した「茂木杯マラソン大会・駅伝大会」を創設。

平成23年(2011年)の第45回大会まで続き、平成24年(2012年)からは、現在の「湊酒田つや姫ハーフマラソン大会」として引き継がれており、現在もハーフマラソンの部の総合優勝者(男女)に茂木杯を授与している。

茂木氏の出生地の酒田市本楯地区では、茂木氏の妻で中学校の教師を務めた『かう』(故人)さんの寄付金で基金をつくり、茂木善作顕彰会を設立し、毎年6月の地区運動会で小学生から一般までが参加する“茂木善作顕彰マラソン大会”の成績上位者に賞状とメダルを贈り、地区の誇りである茂木善作氏の功績を後世に伝えていきたいとしている。 

茂木氏が卒業生でもある鳥海小学校(本楯地区)では、校内に茂木善作氏にまつわる数多くの記念の品々を展示することで、故郷の大先輩の偉業に思いを馳せ、日々の学校生活の中で子供たちに『あきらめない』という先輩の教えを伝えていきたいと取り組んでいる。

家族に宛てたハガキの概要
アントワープ五輪出場時に茂木善作氏が家族に宛てたハガキ